Working,Learning,Playing,and Living

頭の中にあること、日々感じたことをつらつらと書いていきます。

自分の手を動かすということ

先日、両親とお墓参りに行った。
 
行きは自分が車を運転した。
助手席に父、後部座席に母を乗せて、約1時間の道のり。
昨年の夏に免許を取得して以来、運転席に座った回数はまだ両手で足りるくらいではあるけれど、
ようやく一般道路では何とか平常心で運転できるようになった。
初めて路上に出た頃は40キロ出すのが精一杯だった。あの頃に比べれば進歩したかな。
 
お墓に着いて、まずは掃除。
右手にスコップを持って土を起こし、左手で伸びかけていた雑草を抜く。
土を触ることが久しぶりだったように思う。
そして、左手がうまく動かないことに気が付いた。
いま、私はこの文章を両手の指をそれぞれ使って打っている。仕事柄、それほど遅くはないつもりだ。
それよりも単純なはずの草を抜くという動作がうまくできなかった。
普段、いかに自分が慣れきった動作しかしていないか、ということを強く感じた。
たまに思うけれど、私、右手を怪我したら服着ることすらできないんじゃないだろうか。
 
何が言いたかったのかというと、
自分の手足を動かすということがどれほど大事かということ。
運転が上手い人の隣に座っているだけでは、自分が上手く運転できるようになることはない。
料理をしているのを見ているだけでは、美味しいごはんを作れるようにはならない。
下手くそでもいいから、失敗してもいいから(事故しない程度に)、
自分の手を、足を、身体を動かすということ。
 
自分の手足を動かすことで、土の手触りだったり、アクセルを踏む感触だったり、
頭ではなく身体が得た実感として、経験が身体の中に取り込まれる。
それは、他人から見ればどんなにつまらないことであったとしても、
ネットやテレビや本で得る知識とは違う、人から聞いたどんなリアルな話とも違う、
自分だけが持ちうる感覚。
 
そういうことって当たり前かもしれないけど、
都会に生きていると、そして会社という組織で働いていると、
大事なことを忘れがちなように思う。
食べるものはスーパーでもコンビニでもすぐに手に入るし、
服はなければ買えばいいし、汚れたらクリーニングに出せばいい。
車を運転しなくても、あるいは歩かなくても、電車に乗れば、タクシーを呼べば、
行きたいところに行けてしまう。
そして、どんどんどんどん便利な世界を求めてしまう。
もっと安く、
もっと速く、
お金を払っているんだから、自分が求めるものが与えられて当然だ、という意識が染み付いている。
 
コンビニでもファーストフードでも、どこに行ってもサービスが良すぎて気持ち悪いと思うことがしばしばある。
ちょっと待ち時間が長くなると「申し訳ありません」
そこまでしなくていいよ、ってこっちが申し訳なくなる。
電車も1分遅れただけで「申し訳ありません」
1分くらいで何で謝るの?って思うけど、
1分でも遅れると乗り継ぎに影響して迷惑を被り苦情を訴える人がいるのだろう。
丁寧な接客をしてもらえることはとても有り難いし気持ちいいのだけど、
その一方、それが仕事じゃないよね?という思いもある。
ホテルマンとドラッグストアの店員の接客態度を比べようなんて思わないよ。
 
本来、自分が必要なものは自分が用意する、自分でつくることが基本だったはず。
それを、少し多く作りすぎてしまったものをお裾分けしたり、
自分が得意なことを誰かの分までやってあげたり、そういうことをしたりしてもらったり
ということが仕事の起源だったはず。
今、どうしてもその枠組みから外れたものが多すぎるように思えて仕方ない。
 
いったい自分は今どこに向かっているんだろう。
自分にとって本当に大事なものは何だろう。
 
考える、というよりも、自分の感覚の中で探っていきたい。
まずは、身体感覚を取り戻していきたい。
だから、画面の向こうの世界とは、少し距離を置こうと思う。
パソコンの電源を切って、携帯も少し横に置いておいて、生身の自分を大事にしたい。
自分の足下から、自分の暮らしを、ひとつずつ見直していきたい。
 
それが、生きる力をつけるための第一歩だと思うから。
※旧ブログより移行(2013/05/07)